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大場秀章先生の「草木花ないまぜ帳」
 
 
テーマ: キク

キク  今、キクは漢字で「菊」と書くが、昔は鞠と書いた。鞠は、蹴鞠つまり、けまりで、キクにこの字を当てたのはキクの花を蹴鞠に見立たことによるらしい。

 キクには大、中、小、厚物、管物、それに千輪仕立て、懸崖仕立て、さらに伊勢菊、江戸菊、肥後菊、嵯峨菊などに大別されるおびただしい数の園芸品種がある。栽培でも、簡単で放りぱなしにしておいても枯れずに、そこそこの花を開いてくれるものから、それこそ丹精こめて仕立て上げなくては目もあてられない難物まで実に様々だ。

 私はキクは花も好きだが香りに惹かれる。菊花薫るとは秋を代表するイメージだが、実は菊花の香りを私は秋の愉しみのひとつにしている。この香りを愉しみつつ、食べてしまう食用菊も秋ならである。

 キクについて書きたいことは山ほどある。本一冊になるだろう。ここにすべてを紹介するのはとても無理だ。よってここではキクの栽培の歴史を追ってみることにしよう。栽培される菊を植物学ではイエギクと呼ぶが、これは今から1500年ほど前に中国で、いくつかの野生種を交配することによって作出された。すでに唐の時代にキクを詠んだ詩文があるので、栽培も盛んであったと考えられるが、残念ながら絵画や菊譜などの姿かたちを記憶に留めたものがなく、その正体は判らない。宋の時代には菊譜が著わされ、どんな菊が栽培されていたかが判っている。色では黄、白、紅、紫があり、大輪のものでは直径は9cmくらいはあったらしい。

 さて、「万葉集」には菊を詠んだ歌はどのくらいあるか当てていただきたい。正解をいうとゼロだ。ただ、知識としては万葉集の時代も、中国で菊が愛好されていることを知っていたらしい。万葉集とほぼ同時代の「懐風藻」という日本最古の漢詩集に、キクを詠んだ6首が含まれているのがその証拠になる。

 キクといえば、皇室との関係も深い。皇室は菊を紋章に用いている。キクに関連の行事も営まれている。平安遷都3年目の797年から宮中での菊花鑑賞も始まっている。万事唐風を習っての世の中のことで、807年からは、重陽節菊花宴も宮中慣例行事になった。ただこれは花を観賞するというよりも、陰暦9月9日の重陽の節句に酒に菊花を浮かせて飲むことの方が重要であったらしい。キクは不老長寿の薬とも考えられていたからである。ただ、平安時代の美術品では菊を描いた作品は少ないことから、当時はキク自体とてもまれな植物だったと考えられる。宋との貿易も進む鎌倉時代にいろいろなキクが渡来した。蒔絵のような美術品にも菊花がよく登場することから、宮中外でも栽培さたのだろう。

日本で菊の栽培が隆盛を迎えたのは江戸時代になってからのこと。各地の環境に順応した栽培系統が城下町を中心に育成されていくのである。武家に限らず農家でも商家でも、キクは栽培された。そして日本に野生するキクの仲間の野生種の遺伝子が交配によって導入されるなど、今日栽培されているキクの園芸品種の基本型が完成するのは江戸時代も末期になってからのことといってよい。

明治時代は天皇制の復活とともに菊花の栽培はますます盛んになり、欧米からの新しい園芸品種もこれに加わっていき、隆盛は今日にいたるのである。菊祭りや菊人形など、キクを中心にした年中行事も各地で盛大に営まれている。キクは日本を代表する花といってよい。

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Profile:

東京大学名誉教授
理学博士
大場 秀章 先生
(おおば ひであき)
東京大学名誉教授。植物分類学の権威であり、ヒマラヤに生育する植物研究の第一人者の大場秀章先生が、植物に関する興味深いコラムを毎月お届けします。大場秀章先生には、当社の緑育成財団が支援している「ネパールムスタン地域花卉資源発掘調査」の中心メンバーとしてご指導いただいています。