大場秀章先生の「草木花ないまぜ帳」 |
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テーマ: ツバキ |
ツバキは今や世界の園芸市場の一翼を担う日本原産の植物である。ツバキにはヤブツバキとユキツバキという2つの野生の変種がある。一重咲きの園芸品種はヤブツバキに由来すると考えられるが、複雑な八重咲きの花を持つ園芸品種の誕生と発達にはユキツバキが大きい役割を果たした。 というのもヤブツバキの方は花のかたちの変異は小さく、野生では八重咲きもほとんど見られず、園芸品種の作出には向いていない。日本海側の多雪地に生えるユキツバキは、明らかな幹を持たず、地際をはうしなやかで折れにくい枝が群がるようにでる。多雪地帯で栽培されているヤブツバキ系の園芸品種では大雪で枝が折れるのと大違いである。葉も薄く鮮緑色で表面の光沢が強い。花弁ではヤブツバキのように5枚のものもあるが、6枚とか7枚のこともあり、しかも長短があり大きさが不ぞろいである。 日本海側の多雪地帯では海岸沿いを中心にヤブツバキも自生する。ユキバタツバキはヤブツバキとユキツバキとの間に自然に生じた雑種だが、花の変異性はユキツバキ以上に大きい。この大きな変異性がツバキの園芸化のための資源として重要であり、ツバキの園芸化に積極的に利用されたのは間違いない。 はやくも室町時代にはユキツバキの影響を受けたと考えられる園芸品種が登場する。北陸地方と都(京都)の間には古くから開けた交流路があり、そこを経由してユキツバキやその系統の園芸品種が当時文化の中心地であった京都に入った。ここで都会の好みに合った整った花型、樹型をもつ園芸品種が作出され、これが全国に広まったと推測できる。「乙女」系や「荒獅子」系など一部の園芸品種ではユキツバキのように葉の柄に毛が生えており、その来し方がしのばれる。 京都では多くのツバキの老樹が災厄をまぬかれて寺や個人の宅に保存され、そのいくつかは今日に生き残っている。これに反して、江戸では度重なる大火、地震などがあり、市中ではツバキの老樹は少ない。しかし、京都のツバキ園芸品種の記録は少ない。その理由は、江戸ではツバキが植木屋を通じて商品化されたのに対して、京都ではツバキが商品とならなかったためと考えられる。 とくに冬の空っ風がツバキの生育には適さない江戸と較べ、京都は盆地で山々に囲まれ、湿気も高くツバキの生育に適している。京都では誰でも手軽にツバキを挿し木で殖やせた。これではツバキは商品にならない。さらに京都人のツバキ趣味自体も江戸とは異なっていた。京都ではツバキは茶花であった。江戸好みの豪華絢爛なツバキよりも、清楚でデリケートな色合いの変化が珍重されたことだろう。茶器同様に人気の園芸品種を所有することではなく、唯一無二のものを保持することが尊ばれたことだろう。 北陸から京都そして江戸という栽培地域の変遷がツバキの園芸化では意味のあることだった。江戸に進出することがなかったら、国際化では中国のトウチャがツバキに先行したかもと思われてならない。 |
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