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大場秀章先生の「草木花ないまぜ帳」
 
 
テーマ: イチョウ

イチョウ  秋も深まると急に目立つ存在になる。イチョウのことだ。装いも新たに黄金色一色のイチョウ並木。日の光りに燃え立つように輝く時刻には思わず歓声が出そうだ。熱帯で暮らしているのかと錯覚しそうな夏は明らかに去り、東京は温帯の都市に様変わりである。物思いに沈む散歩にもイチョウ並木はぴったりだ。なにしろイチョウは日本で街路樹にもっともよく用いられている樹でもある
 落ちた直後には鼻をつく悪臭を放ったギンナンだが、口にするときはおいしさが残るだけだ。火にくべて焼いてもよし、茶碗蒸しにもいい。マツタケの土瓶蒸しにも欠かせない一品である。

 こんなにも身近かな存在なのだが、イチョウは生きている化石でもあることは存外知られていないらしい。イチョウにとてもよく似た葉は何しろ1億年以上も昔の地層から発見されている。数は減ったとはいえまだ恐竜が大地を闊歩していた時代である。恐竜が大繁栄を遂げていた頃、実はイチョウの祖先筋にあたる植物も繁栄を誇っていたのだ。恐竜が滅び去ったように、イチョウの仲間の植物の絶滅も続いて、今の地球にはイチョウの親戚といえる植物はまったくみられなくなってしまった。最終的に生き残ったのはイチョウだけとなったのである。

 少しややこしい話をさせていただこう。陸上に最初に登場した植物は今日のコケやシダ植物の仲間の植物だった。コケもシダも胞子をつくり、それが風で散布され着地した場所で、受精に成功すれば、そこに定着することができる。卵に向かって泳いでいった精子が卵と合体してはじめて受精は成功する。植物の祖先が海中で暮らしていた頃に獲得した受精のやり方をそのまま引きついているのである。どうやったら陸上を泳ぐことができるのだろう、と考え込んでしまう話だ。コケやシダは日陰でジメジメしたところを好んで生えている。そういう場所なら、雨の日ともなれば精子は泳いで卵に到達できるからだ。

 やがて親株に寄生したまま卵を育てる植物が登場した。さらに雄の胞子を卵を育む器である「配偶体」に寄生して生長させることを覚えた植物も登場した。器は母体に寄生しているのだから常に水に満たされているし、そもそも器の中なので泳ぐことも必要としないくらい至近距離に卵はある。だから精子が泳ぐために有していた「べん毛」は不要となり、進化とともに消失していったのだが、律儀にそのべん毛を失わずに持っていた植物もあった。それがイチョウとソテツの仲間なのである。

 イチョウやソテツは卵が母体に寄生したまま成長する裸子植物の仲間で、シダ植物に次いで陸上に登場した裸子植物の中でも原始的な植物でもある。裸子植物の中で最大の繁栄と多様ぶりを示しているのが、スギやヒノキなどの針葉樹の仲間である。しかし針葉樹にはべん毛をもつ精子はみられない。先にも書いたように、同じ器の中での受精なのだから原理的にもべん毛は不要といってよい。だからイチョウにべん毛をもつ精子があるとは誰も信じなかった。イチョウにべん毛をもつ精子のあることを発見したのは、日本人の平瀬作五郎だった。明治29年(1896)で、それは平瀬が研究していた東京大学が創立されてまだ20年にもならない頃だった。誰も最初はそれを信じない。発見とはそんなものだ。

 平瀬の精子発見以後、イチョウは植物学の教育には欠かせない重要な植物になった。ヨーロッパやアメリカの大学には必ずといってよいくらいイチョウの樹が植えられている。もっともイチョウは寒さには弱いので、アメリカ合衆国でもシカゴでは育たないし、ヨーロッパでも北方での栽培は無理だった。

 日本ではほとんど見かけない珍妙なイチョウの樹をヨーロッパで見かけることがある。雄雌別株になるイチョウを、雌株に雄株(あるいはその逆)を接いで1本の樹としたものだ。これだとスペースも限られた小さな植物園でもスペースが節約でき栽培できるからだろう。

 イチョウは学名をGinkgo bilobaという。属名のGinkgoは銀杏の誤った音読みによるといわれている。この名前を最初に記したのは江戸初期の元禄時代に日本を訪問したドイツ人ケンペルで、学名として発表したのはリンネである。中国原産で、日本には室町時代には伝わったといわれている。

 始めにも書いたが、ギンナンは多肉質の種皮の部分が悪臭を放つだけでなく、潰すと油脂成分がしみだし人も車も滑りやすくなる。なので雌株は街路樹には嫌われる。聞いた話だが、日本の園芸家は幼樹のうちから雌雄も区別がそう外れずにできるので、街路樹にはまず雌株がないのだという。もっとも雌株と判ったら植え替えれば済むことだが、ヨーロッパなどではその区別ができなかったのか、そういう指向はもたなかったのか、ともかくやたらと雌株が街路樹に多い。ドイツのミュンヘンはイチョウの並木が美しい町だ。しかし、その黄葉を近くで愛でる気にはなれない。悪臭がすごいためだ。それに車も滑って危ない。

 イチョウは街路樹だけでなく、庭園樹としても優れている。枝が枝垂れるペンドゥラ、ほうき立ちするファスティギアータ、斑入りなど、園芸品種もいくつか知られている。
 私には不思議に思われるが、イチョウにはほとんど虫がつかないことだ。イチョウが毛虫に食い荒らされたというようなことを聞かないばかりか、第一、秋の黄葉にも虫食いのものはほとんどないのである。どうしてなのか。それと関連があるかどうか判らないが、最近イチョウの葉が健康にも良いとされ、様々な医薬品が売られている。こうした新薬の開発では日本は一歩遅れた感がある。あまりにも身近か過ぎてその価値に気付かなかったのだろうか。だとすれば宝の持ち腐れだろう。

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Profile:

東京大学名誉教授
理学博士
大場 秀章 先生
(おおば ひであき)
ヒマラヤに花を追う-秘境ムスタンの植物- 2005年2月4日、大場秀章先生が中心メンバーの調査チームがネパール王国のムスタン地域で行った現地踏査の成果をまとめた著書「ヒマラヤに花を追う-秘境ムスタンの植物-」の出版を記念して、講演会が開催されました。
東京大学名誉教授。植物分類学の権威であり、ヒマラヤに生育する植物研究の第一人者の大場秀章先生が、植物に関する興味深いコラムを毎月お届けします。大場秀章先生には、当社の緑育成財団が支援している「ネパールムスタン地域花卉資源発掘調査」の中心メンバーとしてご指導いただいています。