大場秀章先生の「草木花ないまぜ帳」 |
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テーマ: ユリ |
新緑も過ぎ木々の緑に鬱陶しさが増す頃、林縁や林床に咲くヤマユリを見付けるとなぜか清々しさを覚える。純白の花は緑の海に浮んだ真珠のようでさえある。 ヤマユリに限らない。日本には10数種のユリの仲間(ユリ属)が自生する。カノコユリ、スカシユリ、ササユリ、テッポウユリなどは、あまり人手を加えずに園芸植物として利用されている。 日本の山野に野生する数々のユリがが国際的なユリの園芸化の貴重な資源となったことはあまり知られていない。ユリの園芸化は日本の野生ユリあってのものだったのだ。 ヨーロッパに生きた日本のユリを最初に伝えた人物はシーボルト事件で有名なシーボルトである。日本に6年間滞在したシーボルトは、日本の文化が日本の豊かな植物相と密接な関係があることを知るとともに、日本での園芸の隆盛にも目を見張った。 氷河期にそれまでの植物相が壊滅的な破壊を受け園芸にとって魅力ある植物に乏しいヨーロッパと異なり、日本には山野に園芸的にも魅力ある植物が多数自生している。そのことを知ったシーボルトは、日本の植物をしてヨーロッパの庭を変革しようと考えた。生きた植物や球根、種子を集め帰国時の船に積んだ。その船、ハウプトマン号は無事ヨーロッパについた。この船がもたらした日本の植物の中で人々に驚愕にも似た感動を与えた筆頭がテッポウユリだった。その球根は同じ重さの銀と取引されたといわれているほどだ。 しかしシーボルトは事件のため遅れて出港した。シーボルトを乗せた船、ジャワ号、はアントワープに入港した直後、ベルギーのオランダからの独立戦争に遭遇し、植物はベルギーに差し押さえられ、すぐにはシーボルトの手には入らなかった。その船荷の中にあった名花の代表はカノコユリだった。その他多数の日本植物が園芸家の注目を集め、ベルギーはにわかにヨーロッパ園芸の中心地となったほどだった。 ユリはもともと人気のある植物だった。西アジア原産のニワシロユリは世界最古の園芸目的の栽培植物といわれている。純白で明らかにニワシロユリよりも魅力あるテッポウユリはすぐさまニワシロユリに取って代わった。カノコユリはさらに驚異だった。ルビーにも似た真紅の突起が散りばめられたカノコユリの花は、これよりも美しい花はないとまでいわれた。 こうした日本のユリは球根で増やすことができたが、ヤマユリだけは当時の技術では増やすことができなかった。明治時代に日本から輸出された産物の中で比較的大きな比重を占めたのがヤマユリの球根で、横浜にはその球根の輸出を手がける園芸会社も設立されたほどであった。 ユリの仲間は他種との交配が比較的容易にできる。シーボルトによる導入の歴史もあって、いち早くユリを園芸産業の中心にすえたのはオランダである。様々な組合せの交配が行われ、花数も多く、花自体が大きい、豪華な園芸品種がたくさん作出された。 ユリ新品種育成はアメリカ合衆国西海岸側などでも盛んだ。園芸化の原動力は、多くの野生種がもつ遺伝的な多様性である。交配により新たな組合せを得ることが育種上は重要であるが、商品として成功するかどうかを決めているのはそればかりではない。芸術的なセンスも大きい。 ユリの園芸品種はいくつかのグループにまとめられる。日本でよくみるのはカサ・ブランカに代表されるオリエンタル・ハイブリッド(オリエンタル・リリー)群とモナやロリポップのようなアジアティック・ハイブリド(アジアティック・リリー)群のものである。前者は、ヤマユリやカノコユリなど多くは横向き咲く日本その他の東アジア諸国原産の種間の交配、後者は花が上を向いて咲くスカシユリの血を濃く受け継ぐ雑種群である。 欧米でのユリは益々大型化し、花数も100近くに達するほどに増えている。まさに華やかで人目を引くが、こういうユリをみると決まった林下に楚々と咲くヤマユリなど野生のユリのたたずまいが脳裏に浮かぶ。豪華とはいえ、それらは野の花特有の野趣溢れる花である。私の中でのユリには常にこのイメージがつきまとう。古い人間のせいだからだろうか。 |
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