大場秀章先生の「草木花ないまぜ帳」 |
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テーマ: スイカ |
促成栽培があまりにも進んだせいか、東京では残暑の頃にはもうスイカの出荷が減ってしまって品数が少ない。けだるい夏の日中に縁先でスイカを頬張った頃がなつかしい。 私はスイカが大好きだった。毎日出されても飽きなかった。1988年に中国のカラコルム・崑崙総合科学考察隊に唯一人の外国人として参加したときに、それこそスイカを日に何個と食べた。乾燥し、しかも飲料に適した水に不足するタクラマカン砂漠や崑崙山脈での調査では水気の多いスイカや有名なハミウリは水代わりの必需品であった。その時はもういいかなと思う位にスイカを食べていた。毎日5個以上、もう一生分は食べたように思った。 スイカはウリ科の一年草で、その原産地はナミビアとボツワナにまたがるカラハリ砂漠である。今では世界中で広く栽培される重要な食用植物になっている。学名はCitrullus lanataで、この学名は最初の日本植物誌を著したツュンベルクがメロン(Momordica)の1種として『ケープ植物誌』で記載した学名をもとに、東京大学の第2代植物学教授であった松村任三が弟子の中井猛之進と共に発表したものである。 スイカには大きく3つの栽培系統がある。ひとつはアフリカと中国で栽培される種子を食料とする系統で、アフリカでは広い範囲で食用に利用されている。この系統の果実は苦味が強く食用には向かない。果実を利用する系統のひとつが日本での栽培品種のほとんどがそうである生食用で、残りの系統は豚の飼料用に主としてアメリカ合衆国で広く栽培されるものである。 スイカがカラハリを出て西アフリカから地中海地方、そして中近東に達し、そこで広く栽培されるようになったのは今から3千年ほど前とされている。それというのも4千年前の古代エジプトでの絵画にスイカが描かれているからである。おそらくインドでの栽培も同様な時期に始まったとみられている。スイカが中国に伝わるのは10あるは11世紀で、西域から伝わったために「西瓜」の名が生まれた。飼料用のスイカが栽培されるアメリカ合衆国への導入はヨーロッパからの移民によるもので、最初の記録は1629年にさかのぼる。 日本にスイカが伝わるのは『農業全書』(1697年)によると1640年頃とされる。中国から入ったものか。別の説によればポルトガル人によって天正7(1579)年には種子が長崎にもたらされたという。しかしスイカが日本で普及するのは明治初年にヨーロッパやアメリカ合衆国から優良品種の種子が導入されてからである。大正時代には千葉県や奈良県で品種改良が始められ、その後急速に栽培面積が増加していったが、太平洋戦争時には不要不急の作物にあげられ作付けが禁止されてしまった。 昭和22(1947)年にスイカの栽培が解禁になる。一時期スイカは平和を象徴する作物でもあったのである。現在はおびただしい数の栽培品種がスイカにはあるが、栽培の主流になっているのは果肉が紅色の「富研」、「旭大和」、「黒太陽」、「紅こだま」、種子なしの「種子無し向陽」、黄色の「黄大和」、「フレッシュ・クリーム」、「光の国」、それに大きな楕円形で果皮が黒味を帯び果肉が紅色の「黒部」であろうか。 促成栽培(2~4月)、ハウス半促成栽培(5~7月)、トンネル栽培(7~8月)、抑制栽培(10~12月)とスイカはほぼ通年にわたり出荷が可能となった。いつでも食べられるのはありがたいと思う反面、季節性が失われたことを嘆く声もある。いまやスイカは食べ物と季節性の問題を考えるうえでも重要な植物になっている。 |
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