大場秀章先生の「草木花ないまぜ帳」 |
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テーマ: チューリップ |
頭にターバンを巻いたトルコ人の絵をみたことはないだろうか。ターバンのことをトルコ語でtrulbend、アラビア語のtrlban、さらにはペルシア語ではthoulybanというが、これをラテン語化したのがTulipaで、それから英語のチューリップTulipも生まれた。Tulipaはチュリーップの仲間の属名になっている。 チューリップの花はトルコのターバンに似てなくもない。そのトルコでは古くからチューリップの栽培が盛んだったが、ヨーロッパにチューリップが知られるようになったのは16世紀になってからのことだ。 博物学者クルシウスは一時期、スペイン、ブルゴーニューそしてオーストリアを手中にしたハプスブルグ家に雇われ、ウィーンにいたことがあった。希代の博識家であり、また何よりも未知の植物を探しそれを育てるのが好きだった彼は投じのウィーンに東方の小アジアなどから、当時のヨーロッパには未知の植物が多くもたらされてくることを知っていたのである。 クルシウスは1593年に請われてオランダのライデン大学に移るが、そのときウィーンでトルコにでかけたビュスベクという人からもらったチューリップを携えてきた。大学に新しく創設した薬草園でこれを栽培したが、盗まれて姿を消した。しかし、そんなに時間はかからないうちにチューリップがオランダ中で広く栽培されるようになったということだ。オランダが後にチューリップ王国となるきっかけをつくったのはクルシウスだといってもよい。 春に大きな色鮮やかな花を開くチューリップはヨーロッパの人々を熱狂させた。花の少ないヨーロッパでも春にはたくさんの花が咲く。しかし、それはスノーフレークやスズランのように可憐ではあるが、小さい花のものばかりだった。スズランからみれば巨大で、そのうえ色も鮮やかな花を開くチューリップはたちまち花を愛する人々の憧れの的となった。 チューリップ探しに狂騒するチューリップ狂時代がヨーロッパを何度かを襲った。最初のチューリップ狂時代は1634年にやってきた。たった1つの球根が、馬車2台分の小麦やメス牛4頭、豚3頭などと取引され、なかにはビール工場と交換された話なども伝わっている。マニアのマニアたるゆえんは、こんなばく大なお金を払ってまで、誰ももっていない新しいチューリップの球根を手に入れたいところにある。チューリップには人を狂わす魔性が潜んでいたともいえる。 チューリップに狂っていた時代、園芸の技術は未発達だった。新しいチューリップを求める要求に応えるには、ヨーロッパに伝わっていない新しい野生種を発見することだった。今日の知識でいえば、中央アジアから北アフリカにかけては150を超えるチューリップの仲間の野生種がある。だから、当時のヨーロッパにもたらされた野生種はそのごく一部だったわけだ。チューリップ狂に沸いていた頃、たくさんの魅力的なチューリップがトルコで栽培されていた。 ハプスブルグ家などの王室は新しいチューリップを探す探検隊をトルコや当時オリエントと呼ばれた西アジアに送り込んだ。もちろん一攫千金を夢見る人たちもそこに殺到した。いま私たちが目にする多彩なチューリップの誕生の歴史にはこうしたたくさんの人々の涙ぐましいドラマが刻まれている。 今日のチューリップの園芸品種の多彩さには目をみはるものがある。次々に登場する新しいチュリープに驚くこともしばしばだ。 ところでチューリップの自生地の多くは冬もそんなに寒くなくしかも適度の湿気があり、夏はむしろ冷涼で乾燥する地中海型の気候下にある。したがってチューリップの栽培には地中海型気候やこれに似たヨーロッパ大陸西側の地域が適している。日本でも日本海側が栽培に向いているのは自生地やその後の改良が進められた地域の気候に近いためだろう。 さて、日本にもチューリップの仲間の植物がわずかながら自生する。それは、アマナとヒロハアマナで、いずれも低地や丘陵地のやや湿り気のある場所に生える。アマナは甘菜で、食用としたが、球根に甘味があることからその名は起こった。 アマナやヒロハアマナの生えるような場所が少なくなったためであろう、いまはめったにこれらの植物に出会うことはないのが残念だ。園芸の巨大な花を開くチューリップからは想像もできない可憐な小さな花をもつアマナとヒロハアマナである。この日本のチューリップが園芸用の交配に役立つ出番はあまり期待できそうにもない。しかし、それは小さな花を愛する日本にふさわしい野生のチューリップであるともいえるだろう。何としても絶滅の危機から護っていきたいと思わずにはいられない。 |
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